2009年06月16日

IPD(アイピーディー)というTh2活性阻害薬

IPD(アイピーディー)というTh2活性阻害薬(内服薬)が、症状に応じて使用されることがある。

IPD(アイピーディー)は、アトピー性皮膚炎や気管支喘息でも使われる薬剤である。花粉症では、Th2細胞活性の亢進・サイトカインの中のIL?4・IL?5(アレルギー症状を誘発するもの)の産生の増加がみられることがあるが、この薬剤はTh2細胞の活性を低下させIL-4・IL-5の産生を抑制する作用があり効果があるとされる。ただし、即効性はなく、効果が現れるのに数週間ほどの時間がかかるという特徴がある。


自律神経作用薬 [編集]
鼻詰まりが強い場合、いわゆる血管収縮剤(α交感神経刺激薬)と呼ばれる薬剤の点鼻薬が処方されることがあるが、連用すると効果が弱まるだけではなく、かえって鼻詰まりがひどくなり、依存(離脱困難)になることもある。そうした副作用が出やすいため、短期間に限って処方されることが多い。鼻詰まりがひどい患者がステロイド点鼻を行うとき、薬剤が鼻腔内に入っていきやすいように、あらかじめ鼻粘膜を収縮させるために用いる場合がある。この種の薬剤は市販のほとんどの点鼻薬に含まれており、即効性と高い効果があるため、説明書の注意書きを守らずに乱用してしまいがちである。花粉症に使われる市販薬でいちばん問題になるのが、この点鼻薬の副作用である。幼児の場合、まれに重い副作用が出ることもあるので使用を避けるべきである(原則的に5歳以下には用いない)。

血管収縮剤は充血を取ると称する市販の点眼薬にも多く含まれており、やはり連用するとかえって充血がひどくなることがある。

副交感神経遮断薬である抗コリン薬はエアゾール剤の関係で製造を中止している。

血管収縮剤(点鼻)??硝酸ナファゾリン、塩酸トラマゾリン等
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薬物治療の注意点 [編集]
病気によっては禁忌となっている薬もあるので、持病のある人はたとえ気軽に買える市販薬であっても、その使用については医師・薬剤師に相談すべきである。他に薬剤を常用している人や、乳幼児、小児、妊婦、授乳婦も同様である。なんらかの副作用を感じたら、早めに医師・薬剤師に相談すべきである。

作用と副作用とのバランスを考え、効果が不充分なものであったり、眠気などの副作用があまりに日常生活に支障があるようであれば、違う薬および治療法に変更してもらうよう医師に相談することも大切である。あまりものわかりのよくない医師であると感じたら、病院を変更するのも一つの方法である。

2009年05月30日

武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。公卿が任じられていた。建武の新政の際に置かれ、室町幕府がこれを制度化したものである。

室町時代には武家伝奏が改元や任官を幕府に通告し、公武間の意思疎通を図った。また、足利義満以後武家伝奏を経由して室町殿の政治的要求を朝廷に伝える役目を果たした。ただし、武家伝奏の形態が固まったのは戦国時代の永正年間以後である。ただし、室町幕府においては足利将軍家の外戚として有力公家である日野家・近衛家の両家があり、こうした家が朝廷と幕府の仲介に立つ場合もあった。
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江戸時代に定員は2名。武家伝奏の任命には幕府の許可が必要であるが、任命システムは同じ江戸時代でも変遷があり、江戸前期は幕府が人選を決定し、朝廷は追認するのみであった。中期ごろから朝廷が人選し、幕府が基本的に許可を出す関係へと移行した。幕末には朝廷の人選に対して幕府には拒否権が無くなり事後報告を受けるのみとなった。前期は幕府の朝廷抑制政策のため、中期ごろは誰が務めても大差がなくなり幕府にとって人選の利益が薄くなってきたため、幕末は権力関係の逆転のためと考えられる。

役料はそれぞれ250俵が与えられ、この他に官位禄物の配当があった。江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、幕末の1867年(慶応3年)まで続いた。

江戸幕府の元では学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が任じられ、就任の際には京都所司代より血判提出を求められた。幕府に対する勅使には武家伝奏が任じられた。幕府による朝政への介入が強まると、摂関家・議奏と武家伝奏の合議で朝廷の運営が行われるようになった。王政復古の大号令に伴って廃止された。

2009年04月27日

戦闘後ドイツ軍包囲網からの

9月1日の戦闘後ドイツ軍包囲網からの脱出を図ったポーランド軍ポモルスカ騎兵旅団は、9月3日ガイル・ フォン・シュヴェッペンブルク少将指揮のドイツ第3装甲師団と遭遇し、突破を試みたが、その火力の前に殲滅された。つまり最終的にポーランド騎兵は「ドイツの戦車に突撃し敗れた」形となった。

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「ポーランド空軍は飛び立つこともできずに開戦当日に地上で破壊された。」: ポーランド空軍 (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne) は数の上で劣勢で、しかも最新型の戦闘機が配備されていなかったが、戦闘機部隊は開戦直前に空軍基地から各地に偽装された小規模な「離着陸場」に移されており、地上で破壊されることはなかった。何機かの練習機や予備機だけが地上で破壊された。ポーランド空軍は9月1日の開戦から2週間は活発に作戦を行った。ポーランド側のパイロットはドイツのパイロットに比べてよりよく訓練されており、劣勢な装備ながらドイツ空軍機百数十機を破壊するという無視できない戦果を挙げた。多くのポーランド人熟練パイロットは後にポーランドを脱出して最終的にイギリスに到達し、イギリス空軍に参加してバトル・オブ・ブリテンなどで活躍した。イギリス空軍第303コシチュシコ戦闘機中隊はバトル・オブ・ブリテン開始2ヵ月後にポーランド人と2人の亡命チェコ人のパイロットたちによって編成され、バトル・オブ・ブリテンの期間、イギリス空軍の全戦闘機部隊のうちで最も多い126機の敵機撃墜記録を挙げたことで勇名を馳せた。のちに出版された「303 Squadron」という本はイギリス国内でベストセラーとなり、ドイツ占領下のポーランドでも地下組織によってこの本の海賊版が数多く出回り、たくさんの若者に読まれた。第303コシチュシコ戦闘機中隊の最初の成功によって、他にも多くのポーランド人飛行中隊がイギリス空軍内に編成された。最終的に9個の戦闘機部隊を含む計14個のポーランド人(が主体の)飛行中隊が編成された。
「ポーランドはドイツ軍侵攻の前にほとんど抵抗できず、すぐに降伏してしまった。」: ポーランド侵攻作戦の期間は1940年のフランス侵攻作戦の期間と比べて一週間短いだけである。しかもフランス侵攻作戦ではイギリスとフランスの同盟軍は数の上でも装備の上でもドイツ軍とほぼ拮抗していたにもかかわらず、である。また、ポーランドがドイツに降伏したというのも事実ではない。
「ドイツ軍は画期的な戦闘概念を構築し、新技術を大胆に使った。」: ポーランド侵攻における電撃戦の適用というのは大きな誤解である。アメリカのジャーナリストであるマシュー・クーパーの著書「The German Army 1939-1945: Its Political and Military Failure」には、次のように書かれている。「ポーランド侵攻を通じてドイツの機械化部隊の活動が明らかにしたことは、機械化部隊はただ単に自らの進軍を減速して歩兵の活動を支援するだけだったということである。(中略)したがって、装甲車両に関する思想の戦略的な開拓は死産という結果に終わった。このような作戦司令部の停滞と意気込みの低下は…ドイツ陸軍や空軍…の究極的目的ではなく、伝統的な包囲作戦と空からの攻撃による支援の成功の偶然の副産物に過ぎなかった。当然、包囲も空襲もどちらも敵軍を物理的に破壊するという目的があったからである。これはポーランド侵攻における殲滅戦理論であった。」殲滅戦理論は18世紀のフリードリヒ大王の時代までさかのぼる古く伝統的な戦略であって、19世紀前半にクラウゼヴィッツによって体系化されたが、1870年の普仏戦争や1914年のフランス侵攻からほとんど修正されずにポーランド侵攻に適用された。戦車の使用は「いちおう望ましいものとして留保された…進軍する際の側面からの敵の攻撃に対する恐れ、すなわち1940年の西欧および1941年のソ連におけるドイツ軍の作戦は成功の見込みが低いだろうという恐れは、この戦争のはじめから存在していたのである。」第二次世界大戦後いくらも経っていない時期の歴史観(たとえば1965年出版のバリー・ピット著「The Second World War」)は、戦争初期におけるドイツの勝利は「1918年から1940年の間に飛躍的に進歩した軍事技術」のおかげであるという不正確な視点に基づいており、「ドイツは(戦間期イギリスの)理論を実際の行動において適用し…それを電撃戦と呼んだ」という誤った記述をしている。ジョン・エリスはその著書「Brute Force: Allied Strategy and Tactics in the Second World War」(1990年)において、「…ドイツの装甲師団はいわゆる本物の電撃戦の特徴を持った戦略的任務は負っておらずほとんどいつも各歩兵軍団に対し従属的な存在であったというマシュー・クーパーの主張は充分に妥当である。」と述べている。1985年にはゼロンガとマデイはその著書「The Polish Campaign 1939」において、広く伝説的に解釈されている電撃戦の問題と、ポーランド侵攻における他の兵器の重要性について扱っている。「西側諸国は戦車とシュトゥーカによる攻撃の衝撃的価値に注目していたが、一方でポーランド軍部隊に対するドイツの野戦砲による攻撃の効果については過小評価する傾向にあった。ポーランド侵攻において実際にポーランド軍を粉砕したのは、大量に移動し使用されたドイツ軍の野戦砲であった。」

2009年04月10日

ハーディ・ガーディ

ハーディ・ガーディ(hurdy gurdy)は、弦楽器の一種で、張られた弦の下を通るロジンを塗った木製のホイール(回転板)が弦を擦ることで発音する。ホイールはヴァイオリンの弓と同じような機能を果たしているが、クランク(ハンドル)で操作されており、従ってハーディ・ガーディは一種の機械仕掛けのバイオリンということができる。胴はギターやリュートのような形をしたものが多い。旋律は鍵盤を使って演奏されるが、この鍵盤は「タンジェント」と呼ばれる小さな楔形(通常は木製)を押し下げて弦に押し付けることでピッチを調整している。弦の振動は響板を通じて拡大される。

ほとんどのハーディ・ガーディには、旋律弦の他に複数の「ドローン弦」があり、旋律と同時に常に持続音が響いている。このため、同じようにドローン音を持つバグパイプと似たところがあり、フランスの民族音楽や、現代のハンガリー音楽などでは、バグパイプと同時に、あるいはバグパイプの代わりとしてしばしば使われている。

ハーディ・ガーディの演奏は、多くのヨーロッパの民族音楽祭で見ることができるが、その中でも著名なのはフランスアンドル県のサン・シャルティエで、7月14日前後に行われる音楽祭である。

ハーディ・ガーディは西ヨーロッパにおいて、11世紀以前に発生したと考えられている。最も古い形態の一つはオルガニストルムと呼ばれる、ギター型のボディに鍵盤(音域は1オクターヴの全音階)が設置された長いネックを持つ大型の楽器である。オルガニストルムは駒を共有する1本の旋律弦と2本のドローン弦をもち、比較的小さなホイールを持っていた。大型の楽器のため、演奏は2名で行われ、一人がクランクを回し、もう一人が鍵を引きあげた。この鍵を引きあげるという操作は難しく、そのためオルガニストルムではゆっくりとした旋律しか演奏できなかった[1]。オルガニストルムのピッチ(音高)はピタゴラス音律で調律されており、修道院や教会での合唱音楽の伴奏楽器として主に使用されていた。オドン・ド・ クリュニー(-942)が作者に擬される、Quomodo organistrum construatur (「オルガニストルムの構造について」)と題する短い書きつけが残されているが[2][3]、後代の写本しかなく、真作であるかは極めて疑わしい。オルガニストルムの最古の表象物の一つとして、スペイン・ガリシア地方のサンティアゴ・デ・コンポステーラにある12世紀建造の栄光の回廊(´Pórtico de la Gloria)中にある、オルガニストルムを奏する二人の音楽家の彫像があげられる。

後に「オルガニストルム」は小型化し、一人の奏者がクランクと鍵盤を同時に操作できるようになった。「独奏オルガニストルム」はスペインおよびフランスで見られたが、小型の箱型のハーディ・ガーディである「シンフォニア」(symphonia)に取って代わられてほとんど姿を消していった。シンフォニアは3弦で、全音階の鍵盤を持っていた。シンフォニアの発展と同時期に、下から押す新型の鍵盤も開発された。この新しい鍵盤により早いパッセージの演奏がはるかに容易になり、次第に上から引きあげるタイプの鍵盤を完全に駆逐した。中世のシンフォニアの表象には、両方のタイプの鍵盤が見られる。

ルネサンス期にはハーディ・ガーディはバグパイプと並んで高い人気があり、ハーディ・ガーディの特徴である短いネックと角張ったボディ、および湾曲したテールという形を獲得していった。絵などに描かれた楽器に「うなり駒」が登場するのもこの時期からである。「うなり駒」はドローン弦の下にある非対称形の駒で、ホイールの回転速度が上ると、駒の足の片方が持ち上がって響板から離れて振動し、ブーンといううなりを発生させる。うなり駒は、トロンバ・マリーナ(tromba marina)という単弦の擦弦楽器から借用されたと考えられている。

後期ルネサンスのハーディ・ガーディには、2タイプの外形が発達した。一つはギターに似たものであり、もう一つはリブをもつリュートに似た丸いボディのものである。リュート型のボディは、特にフランスの楽器に多く見られる。
17世紀末になると、音楽の趣味の変化と共に多声を同時に奏することができる楽器が好まれるようになり、ハーディ・ガーディは最下層の地位に追いやられていく。その結果、例えばドイツ語では「農民のリラ」を意味する「バウエルンライアー」(Bauernleier)や「乞食のリラ」を意味する「ベットラーライアー」(Bettlerleier)などと呼ばれるようになった。逆に18世紀には、フランスのロココ趣味で田舎風がもてはやされたことから、再びハーディ・ガーディが宮廷に持ち込まれ、上流層の間で人気を博した。この時期にはハーディ・ガーディのための曲も数多く作曲されている(今日最も有名な作品にはアントニオ・ヴィヴァルディ作(とされた)『忠実な羊飼い』(Il pastor Fido)があげられる)。この時期に、現在もっとも一般的なハーディ・ガーディの形である、6弦の「ヴィエル・ア・ル」(仏:vielle à roue)が確立した。6弦のものは、2本の旋律弦と4本のドローン弦を持ち、ドローン弦を鳴らしたり消したりすることで、さまざまな調に対応できるようになっている(例えばハ音とト音またはト音と二音)。
また、この時期にハーディ・ガーディは東に伝播し、スラヴ語圏西側、ドイツ語圏およびハンガリー語圏においてさらに多様化し、特にハンガリー、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナで広く見られた。ウクライナでは「リラ」と呼ばれ、リルニク(lirnyk)という多くは盲目の辻音楽師が職業として演奏していた。演奏する曲目は主に宗教にまつわるものであったが、ドゥマ(Дума)と呼ばれる叙事詩や舞曲も多く演奏された。しかし、1930年代にソヴィエト当局によりほぼ根こそぎにされ、250から300人のリルニクがソヴィエト社会にふさわしくない社会要素として処刑された。

ハーディ・ガーディの多くは20世紀初頭にはほとんど消滅したが、一部は今日まで生き残っている。特に有名なのが、フランスの「ヴィエル・ア・ル」と、ハンガリーの「テケルーラント」(tekerőlant)、スペインの「ソンファナ」(zanfona)である。近年では再興の動きがスウェーデン、ドイツ、オーストリア、チェコ、ポーランド、ロシア、ウクライナ、イタリア、ポルトガルなどで盛んとなっている。この再興の動きによって、さまざまな新しいジャンルの音楽にハーディ・ガーディが用いられることも増えている。

シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス


2009年03月27日

霊魂は不滅とされ、死者は復活

古代エジプトでは、霊魂は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。 自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた[9]。定められた呪文を唱えたり定まった儀式を行うことによって願望を神に伝えたり、動植物の霊と交流したり、病人から苦痛の原因である悪霊を追い出すことや、死者に再び魂を入れる役割の神官、祭司(魔術師)などがいた[10]。

人の魂は5つの部分から成っているとされた(アルファベット表記なら、Ren、Ba、Ka、Sheut、Ibの5つ)[11]。死者の魂(Ba バー)のよりどころとして死者の体をミイラにして保存した。死者の魂が無事冥界に渡り、将来死者が甦るようにと、ミイラ作成期間の70日ほどの間、祭司は何度も大量の呪文を唱えた[12]。『死者の書』(死者の霊魂が肉体を離れて冥府に至るまでの過程を描いた書)が死者とともに埋葬されることもあった。 ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、霊(エジプト語でアク)として永遠の命を生きる、とされた[13]。

古代ギリシャの哲学 [編集]
プラトンは対話篇において霊魂の働きに着目しつつ探求した。『パイドン』および『メノン』においては、永遠の真理(イデア)を認識する方式として想起論を提示し、その前提として霊魂不滅説を唱えた。

キリスト教など [編集]
欧州においては人間を構成する要素は霊魂(アニマ、ANIMA)、精神 (SPIRITVS) 及び肉体 (CORPVS) であり、錬金術ではこれらは三原質と結び付けられて考えられていた。また、3という数からキリスト教では三位一体に比せられることも多かった。霊魂と精神は肉体に宿り、肉体が滅びると精神と霊魂は分かれると考えられており、霊魂と精神は肉体という泉を泳ぐ二匹の魚に擬せられたこともあった。ここにおける霊魂は人間の本能のようなものであり、成長することはないと考えられていたのに対し、精神は理性のようなものであって成長するものであるとされていた。 精神の成長は人格に比例して大きくなる、という見解もある。

古代インド [編集]

ヴェーダやウパニシャッド [編集]
『リグ・ヴェーダ』などのヴェーダ聖典では、人間の肉体は死とともに滅しはするものの、人間の霊魂は不滅である、とされていた。同聖典では、人間の死後に肉体を離れた霊魂は、火神アグニなどの翼に乗って、最高天ヤマの王国にたどり着き、そこで完全な身体を得る、とされた。

後のウパニシャッドにおいては、死者の魂は、解脱する人の場合は"神道"を通ってブラフマンに至り、善人の場合は祖道を通って地上に再生する、と説かれた(「二道説」と呼ばれる)。そして解脱することがウパニシャッドの目標となった。

霊魂を示す言葉としては「アス」「マナス」「プラーナ」「アートマン」といった言葉が使われた。その中でも「アートマン」はウパニシャッドの中心概念となっている。

サンジャヤ・ベーラティプッタ [編集]
仏教興隆期のインドのサンジャヤ・ベーラティプッタは来世に関する4つの問いを設け「来世は存在するか?」「来世は存在しないか?」「来世は存在しかつ存在しないか?」「来世は存在するわけでもなく、存在しないわけでもないか?」それぞれすべてに対して「私はその通りだとも考えないし、別だとも考えない、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない」として確答を避け、不可知論の立場をとった。このような態度はゴータマ・ブッダの「無記」の立場と通じあう点がある、とされる[14]。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

初期仏教 [編集]
ブッダが説いた初期仏教での「無我」は「霊魂がない」と解するのではなく「非我」の訳語が示すように、「真実の我ではない」と解すべきもの(自他平等の境地を目指した思想)である、ともされている

2009年03月11日

先古典期後期から原古典期ごろに始まり

エル・タヒンの居住は、先古典期後期から原古典期ごろに始まり、全盛期にはその中核部59haに及ぶ都市に発展した。エル・タヒンを支える後背地には、数千haにわたって集落が散在していた。 先古典期後期から原古典期並行の時期には、壁龕のピラミッドと建造物4号の下層神殿が造られた。エル・タヒンの建築活動がさかんになるのは古典期前期からで、この時期に南半分の建設活動が行われた。その段階では、主軸方位は北から東へ20°ずれた方向に建造物が造られた。青いピラミッドと称される建造物3号が壁龕のピラミッドの前に造られた。古典期前期のエル・タヒンの中央部には、「大広場」(Great Plaza) が設けられ、広場の東西南北は、アロヨ・グループ (Arroyo Group)と呼ばれる18,20,19,16号の四つのピラミッド神殿に囲まれている。そのまわりには、二つの球戯場をはじめとして北から東へ20°ずれた方向どおりか垂直方向に建物が築かれている。この時期の建物は表面に石を張った内部に瓦礫のような充填物を詰めていて、先古典期終末ころの遺物を含んでいる。古典期中期になるとタヒン・チコを中心とした北半分が建築活動の中心になり、建物の主軸方位は主として東へ45°傾いた方向に変わっていく。北の球戯場、Great Xicalcoliuhquiがタヒン・チコから東へ見下ろす位置に造られるが主軸方位は同じである。タヒン・チコ自体は、王や貴族、神官などの支配階層の居住区として、南半分からは意識的に切り離す形で建設された。南側では壁龕のピラミッドがこの時期に完成している。エル・タヒンは、古典期後期から終末期にかけて全盛を迎えた。その当時は人口2万人に達したと推定され、エル・タヒンが建設された谷の低い部分やタヒン・チコの低い部分が埋め立てられる大規模な整地工事が行われた。そのような整地工事が行われた際には、古い建造物がうめられたり、その材料が使われた。例えば、タヒン・チコの中段にあたる基壇を調査すると、充填物の中から古典期前期の土器が出土するのはその好例である。この全盛期の年代については、整地工事の行われた年代は考慮されていないものの、ブリュッゲマン (Brüggemann) による復元調査プロジェクトで、ベラクルス州各地の古典ベラクルス文化の諸遺跡の年代から検証された、紀元800年から1150年という年代が与えられている。この年代は1930年代後半に行われた発掘調査によって層位が検証されてつくられたエル・タヒンの編年とも一致している。タヒン・チコは継続的に造成されたと思われ、分厚いコンクリートの覆いのなかから古典期後期から終末期を中心とする多量の土器が検出される。しかし、この全盛期の直後、支配階層の宮殿などの建物やそういった建物に施された漆喰の浮き彫り、宗教的に聖とされる空間、記念碑、支配階層の権威を表す基壇の上に建てられた石碑[4]、石彫などが意識的に破壊されたり、ひっこぬかれて別の場所に移動もしくは廃棄されていることがわかっている。 エル・タヒンの遺跡の表面では、古典期終末期から後古典期の土器が拾えるが、エル・タヒンの周辺部の居住区にともなうものと考えられる。後古典期の終わりごろになると、エル・タヒンの南半分の周辺部分にある建物が使われたことがわかっている。エル・タヒンの南半分に対し比高差30m(標高170m)で西側に位置する「西尾根地区」は、支配階層の倉庫と考えられ、そこから検出される遺物や炭化物のC14年代を測定すると古典期中期に相当する年代測定結果が得られている。

エル・タヒンの建築、美術、出土品など
エル・タヒンの大きな特徴は、ティカルのようにいくつかの通りで建造物のグループが結ばれたり、テオティワカンにみられるような大通りのようなものが存在しないことである。そこから考えられるエル・タヒンの都市計画思想は、エル・タヒン自体と外部を結びつけることは考えておらず、さまざまな大きさの空間をむすびつけて循環させるシステムであったと考える研究者もいる。一方で、発掘調査などの成果によって、熱帯気候の激しい雨から排水するシステムなど建物を保護するための構造があったことが明らかになっている。

エル・タヒンの建築物は、斜面状の基壇の上に長方形の基壇を載せたいわゆるタルー・タブレロ基壇の上にタルー部分をそっくりさかさにしたような‘ひさし’状の部分をつけることにひとつの特徴がある。もうひとつ目立った特徴として、タブレロ部分に装飾的なニッチ(壁龕)を用いていることが挙げられる。かってそのような神殿の外壁には漆喰がかぶせられていた。エル・タヒンの階段状ピラミッドは、表面を切り石でおおって、内部に土と荒石を用いて、長方形の「広場」を囲むように建てられていることが多い。エル・タヒンのピラミッド基壇は、石灰岩で造られ、石材をつなぐ目地部分には一種のセメントが用いられ、建物全体は、たいてい赤色に塗られたが、黄色や青が使われることもあった。建物の継ぎ目などからはみ出そうとしているセメント(凝固材)をバスケット(編みかご)や木の葉を使って押し付けている痕跡を見ることができる。建造物を造る際の土やセメントを運ぶのにバスケットを使っていたことをうかがわせるものである。 両脇に欄干状の施設をもつ階段が正反対の方向に対になってつくられ、欄干の部分には、階段状の文様や格子状の文様が施された。階段の真ん中部分には建物のタブレロ部分をまねたような壁龕をもつ施設が何段にもわたって造りつけられている。この造り出しは構造的には神々のいる異界、天界など聖なる場所へ向かっていく儀式に使われた施設と考える研究者もいる。このような建造物の特徴は、エル・タヒンの衛星都市と思われる遺跡やベラクルス州の古典期の遺跡にみられる。 また、王、貴族、神官などの支配階層の居住区ないし行政的な機能をもつと推定される施設の建物の近くには球戯場が設けられている。球戯場は壁面が直立しているもの、壁面が斜面になっている部分のうえに垂直な部分設けられているもの、二つの基壇が向かい合っているものなどがみられる。しかし、ボールを入れるための「輪」[5]がみられないため、マイケル・コウなどの研究者は、「アチャ(斧)」がその代用として球戯場の得点をつけるためにおかれた標的だったのではないかと考えている(コウ1975,p.137)。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

タヒン・チコは、小高くなった自然地形を利用し、標高150mから170mの部分に建造物AからVまでのピラミッドや神殿が築かれている。テラス状に小高くなった自然地形を利用し1mごとに幾層にも積み重ねられて、この都市全体で最も壮大な支配階層の居住区及び行政的な建築物が集中している。タヒン・チコの建物の表面はアスファルトで塗り固められている。 エル・タヒンの建築物には、もともとは塗色されており、ほかには装飾として壁画、レリーフが施されている。たいていは赤く建物を塗っていたが、建造物3号にみられるように青を全体に塗ったり、部分的に青や黄色が使われることもあった。そのほかには幾何学的な文様や壁龕を強調する場合に、色を対照的に使い分けていることがある。

「壁龕のピラミッド」は、六段の基壇を持ち、現在高さ20mが残存している。建造時の古典期中期から後期の段階ではもっと高く、全体的に赤く塗られていて欄干部分は青く塗られていたと考えられている。現在は失われている基壇の上にはもともと神殿がありその壁龕の数と基壇のタブレロ部分の壁龕の数、さらに入り口部分の壁龕の数を加えると365になり、それぞれの壁龕は、太陽暦の特定の日を表していたと考えられ、それぞれの日に宗教的な意味合いがあるために象徴的に赤や青などの色で塗り分けられていたと考えられている。内面、外面及び階段全体は漆喰画法や乾いた石膏に色を塗る技術によって多彩色な壁画で彩られていた。

「壁龕のピラミッド」の周囲からは、マヤの王に酷似したような正面を向いた王の姿を丸彫りにした石彫が検出されたり、エル・タヒンの先祖の王が神々に扮している姿や神聖な儀式に関するレリーフが刻まれた石板が集中していることから、研究者たちは、一種の「聖域」であったのではないかと考えている。

2009年02月23日

ラーオ語(ラオ語、ラオス語とも)

ラーオ語(??????? ラオ語、ラオス語とも)はラオスの公用語。シナ・チベット語族カム・タイ語派タイ・チワン諸語群タイ語群に属し、広義にはタイ語の方言(一方で時系列的な解釈からタイ語がラーオ語の方言であるともされている)に含まれるため、ラーオ語話者とタイ語話者は両言語の共通部分を使うことによってある程度の意志疎通が可能である(但しこれは、ラオス人の多くがテレビなどのメディアを通じてタイ語を習得しているからであり、多くの中部?南部タイ人がラーオ語を即座に理解するのは困難である)。ラーオ語の表記にはラーオ文字(タイ文字とは異なる)が用いられる。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

ラーオとはラオス語でラーオ族という意味の単語の発音であり、国名をとってラオス語、或いはラオ語のほうがよく使われている。日本では唯一、東京外国語大学で専攻することが出来る。

ラーオ語は主に以下の様な方言を持つ。

東ラーオ語
ヴィエンチャン方言
北部方言(ルアンパバーン)
東北方言(シエンクアーン)
中央方言(カムムアン)
南部方言(チャンパーサック)
西ラーオ語
イーサーン語
このうち特に西ラーオ語はタイ国内のイーサーン(東北タイ)で話されており、ラオス国内で話されるラーオ語に酷似している。ラオス国内に置いてはヴィエンチャン方言が標準語であると見なされているが、ラオス国内の義務教育が完全に一律とは言えず、地方ではこのヴィエンチャン方言を喋ることが出来ない場合もある。

またラーオ語と比較的似た言語に、北タイ語などがある。

ラーオ語(ラオス語)と標準タイ語
先述したように、ラーオ語と標準タイ語(以下タイ語としたところは標準タイ語を指す。)は類似しているが、生活に即した語彙での違いが見られる。たとえば、「田を耕す」という表現をラオス語では「ヘット(行う)・ナー(田)」と表現するのに対し、タイ語では「タム(作る)・ナー」と表現する。この様な場合でもラオスでは特にヴィエンチャン付近を中心にタイ語のテレビを見ることが出来、またタイでもイーサーン語による演歌、モーラムが全国各地で流れているため、このような単語の違いは実際の会話では些細な違いとして気にされずに済むことが多い。

また、ある語彙が全く別のものを指すという現象もたまに見られる。たとえば「パーアナーマイ」と言う言葉はそのまま訳せば「衛生布」となり、ラオスでは「トイレット・ペーパー」を意味するが、タイでは「生理用おむつ」を意味する。これは日本語における「手紙」の言葉が中国語では「トイレット・ペーパー」を意味するのとよく似ている。ちなみに、イーサーン語においてはこの「パーアナーマイ」と言う言葉はタイ語の影響を受けて「生理用おむつ」の意味の方が一般的である。

さらに、外来語の受容にも違いが見られる。タイでは義務教育に英語を導入していたが、ラオスが仏領インドシナに含まれていた関係からラーオ語の外来語には、タイ語より多くのフランス語の単語が含まれる。たとえば、「アイスクリーム」はタイ語では英語の外来語を用いて「アイサックリーム(口語ではアイティム)」と言われるが、ラーオ語ではフランス語の「クレーム」を借用し「カレーム」という言い方がされる。

逆に、ラーオ語、タイ語のサンスクリット=パーリ語の借用語や古典的な単語は、双方似ていることが多い。

ラーオ語とタイ語の対立
先述したように都市部などではタイ語のテレビを見ることが出来るため、とりわけメコン流域のラオス人はタイ語をはなせることが多い。しかしながら、ラオスではタイ語を喋ることは、一般的に歓迎されていない。一般家庭でも子供がタイ語を喋ると、しかられることが多いという。これはラオス歴史の中で、長い間ラオスがタイによって属国化されてきたこと、ラオスが山岳地帯であり農業生産がタイに比べて悪く、貧困を招き結果的小タイ族(バンコク付近に住んだタイ・ラーオ系民族でタイ語の話者)に差別されてきたことが原因であると指摘されている。

逆にタイでもラーオ語は、「貧困で無教育な田舎者」と言うイメージが相当強く、これを喋るとまともに対応してもらえないことも多い。ラオス国内に住むラーオ語を母語とする集団は特に日常的に差別される可能性は低いが、特にタイ国内に住むイサーン人はラーオ語の方言(イサーン語)を母語としていて、イサーンの土地は農業生産性が低くその多くが貧困を抱えていたが、貧困を抱えるがために教育を受けられず(標準タイ語を喋ることが出来ない)、バンコクに出稼ぎに出てくることも多くあったが、過去にはイーサーン語を喋っているだけで有形無形の差別をされるという、事例もしばし見られた。これは現在ではタイ政府の義務教育の無料化実施によって改善されたが、現在でもこの差別感情が拭い去られたとは言い難い。

また外国人が両方の言語を習得する際にはふたつの言語の類似性は有益であるが、次のような注意も必要である。先にタイ語を習得した外国人がラオス国内、または在外のラオス人に対してタイ語で話しかけると、殆どの場合はそのまま通じることが多いため、タイ語とラーオ語が酷似しているという錯覚に陥りがちである。これも当然先述のような理由(ラオス人が既習している)からであって、この場合のタイ語はラオス人にとって「方言を理解する」というよりは「理解可能な外国語」のレベルである。その証拠に、理解はできてもタイ語でリスポンスできないというケースがしばしば発生する。タイ人はラーオ語に対して密接な関係や同源を主張するが、実際にはタイ人のラーオ語理解度はかなり低い。またお互いに民族的な同胞の意識は低いため、これらの言語は完全に個別の言語として踏まえておくことが重要である。

2009年02月06日

ビートルズ関連は重要な箇所で使われることが

作中のファッションは、洋楽バンドなども参考にしている。
登場人物及びスタンドの名前は、洋楽のグループ名や曲名をアレンジしたものが多い。特にビートルズ関連は重要な箇所で使われることが多く、例えばジョジョという名の由来は、ビートルズの楽曲『ゲット・バック』(第3部でこの曲を登場人物が聴くシーンがある)で作詞作曲とヴォーカルを担当したポール・マッカートニーがジョン・レノンを暗喩するために使った名前から来たものである[要出典]。スタンドの由来となった楽曲『スタンド・バイ・ミー』もジョン・レノンのカヴァーが有名。また、クイーン(バンド)の楽曲も重要な箇所での使用が多く第4部、第6部での最後の敵のスタンド名に使われている。
主人公のスタンド名はPart7を除くと「スター・プラチナ」「クレイジー・ダイヤモンド」(ピンク・フロイドの曲名から抜粋)「ゴールド・エクスペリエンス」(プリンスのアルバム名)「ストーン・フリー」(ジミ・ヘンドリックスの曲名)と全て鉱物にちなんだ曲名やバンド名が基になっている。
敵キャラクターや悪役について、作者は「弱い人間がその弱さを攻撃に向けたときが一番怖い」と述べている[11]。
本シリーズにはOVAやアニメ映画化された作品(Part1、Part3)があるが、テレビアニメ化には荒木は対談の中で「たぶん、子供に見せるマンガじゃあないんで、(それは)ないと思いますけど」と答えている[6]。
作中で度々大きな矛盾が生まれたり、設定がいつの間にかなくなっていたりする。特にシーザー・アントニオ・ツェペリの存在自体に関わる重大なミスに対しては単行本4巻でそのミスを修正するとともにあとがきにて「おとなはウソつきではありません。まちがいをするだけなのです…」と謝罪している。
ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ

書誌情報
すべて集英社刊。

雑誌連載
Part6までの通算:週刊少年ジャンプ 1987年1・2号 - 2003年19号(Part1 - 5:全63巻、Part6:全17巻)

Part1 ファントムブラッド
週刊少年ジャンプ 1987年1・2号 - 46号(44話:1 - 5巻)
Part2 戦闘潮流
週刊少年ジャンプ 1987年47号 - 1989年15号(69話:5 - 12巻)
Part3 スターダストクルセイダース
週刊少年ジャンプ 1989年16号 - 1992年19号(152話:12 - 28巻)
Part4 ダイヤモンドは砕けない
週刊少年ジャンプ 1992年20号 - 1995年51号(174話:29 - 47巻)
Parte5 黄金の風
週刊少年ジャンプ 1995年52号 - 1999年17号(154話:47 - 63巻)
Part6 ストーンオーシャン
週刊少年ジャンプ 2000年01号 - 2003年19号(158話:64 - 80巻)
Part7の通算:週刊少年ジャンプ 2004年08号 - 47号、ウルトラジャンプ 2005年4月号 - 連載中(2008年1月現在既刊14巻、以下続刊)

Part7 スティール・ボール・ラン
週刊少年ジャンプ 2004年08号 - 2004年17号(11話:1 - 2巻)
週刊少年ジャンプ増刊 青マルジャンプ(1話:2巻)
週刊少年ジャンプ 2004年29号- 2004年39号(10話:3 - 4巻)
週刊少年ジャンプ 2004年46号 - 2004年47号(2話:4巻)
ウルトラジャンプ 2005年4月号 - (5巻 - )

単行本
新書版〈ジャンプ・コミックス〉
『ジョジョの奇妙な冒険』 全63巻(1 - 63巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』 全17巻(64 - 80巻)
『スティール・ボール・ラン』 既刊16巻
文庫版 〈集英社文庫コミック版〉 既刊40巻+番外編1巻
『ジョジョの奇妙な冒険 Part1 ファントムブラッド』 全3巻(1 - 3巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part2 戦闘潮流』 全4巻(4 - 7巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part3 スターダストクルセイダース』 全10巻(8 - 17巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』 全12巻(18 - 29巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part5 黄金の風』 全10巻(30 - 39巻)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン』既刊6巻(40 - 50巻を予定)
番外編『オインゴとボインゴ兄弟 大冒険』 全1巻
廉価版〈集英社ジャンプリミックス〉B6判
『ジョジョの奇妙な冒険 PartIII スターダストクルセイダース』 全11巻(1 - 11巻)※一部抜粋収録
『ジョジョの奇妙な冒険 PartIV ダイヤモンドは砕けない』 全17巻(12 - 28巻)※一部抜粋収録
『ジョジョの奇妙な冒険 PartI ファントムブラッド』 全2巻(29 - 30巻)※全話収録
廉価版〈集英社ジャンプリミックス〉ワイド版 B6判
『ジョジョの奇妙な冒険 PartII 戦闘潮流』 全3巻(31 - 33巻)※全話収録
『ジョジョの奇妙な冒険 PartIII スターダストクルセイダース』 全10巻(34 - 43巻)※全話収録
『ジョジョの奇妙な冒険 PartIV ダイヤモンドは砕けない』 全10巻(44 - 53巻)※全話収録
『ジョジョの奇妙な冒険 PartV 黄金の風』 全10巻(54 - 63巻)※全話収録
雑誌版〈「ウルトラジャンプ」2007年3月増刊〉B5判
『ジョジョの奇妙な冒険 PartI ファントムブラッド 究極総集編 OVER DRIVE(オーバードライブ)』全1巻 ※全話収録 雑誌連載時カラー・2色カラー完全再現
廉価版〈集英社ジャンプリミックス〉新ワイド版 B6判
『ジョジョの奇妙な冒険 PartI ファントムブラッド』 全1巻(64巻)※全話収録

画集
『JoJo6251[荒木飛呂彦の世界]』
Part4連載中に発売された画集で、幾人かの人名やスタンド名はここで設定されている。また、Part3の舞台設定が1989年から1987年に変更されているが、Part6連載時には1989年に戻されている。
『JOJO A-GO!GO!』
Part6連載前に発売された画集で、幾人かの人名やスタンド名はここで設定されている。また、新しいサブタイトルの仮名称も発表されている

メディアミックス作品
アニメ
OVA
ストーリーは一部が改変され、原作の過激さが緩和されている。

キャスト
空条承太郎:小杉十郎太
J・ジョースター:大塚周夫
M・アヴドゥル:小林清志
花京院典明:鈴置洋孝
J・P・ポルナレフ:森功至
ディオ:田中信夫
ホル・ホース:若本規夫
J・ガイル:麦人
エンヤ:深見梨加
ホリィ:安藤ありさ/佐久間レイ
スージーQ:来宮良子
『ジョジョの奇妙な冒険』 (1993年 - 1994年)
Part3の後半部のアニメ化作品。エジプトでの戦いを描く。
『ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE』 (2000年 - 2002年)
Part3の前半部のアニメ化作品。後半部OVAとほぼ同じスタッフにより製作されている。
『ジョジョの奇妙な冒険 第3部 スターダストクルセイダース DVD-BOX』 (2007年5月25日)
上記のアニメ作品を全て収録したDVD-BOX。
荒木飛呂彦のイラストから完全再現したタロットカード31枚セット、サウンドトラックCD、ブックレット付き。

劇場アニメ
キャスト
ジョナサン・ジョースター:小西克幸
ディオ・ブランドー:緑川光
エリナ・ペンドルトン:水樹奈々
ウィル・A・ツェペリ:小山力也
ジョージ・ジョースターI世:磯部勉
トンペティ:坂口芳貞
ダリオ・ブランドー:小沢一敬(スピードワゴン)
ワンチェン:井戸田潤(スピードワゴン)
『ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド』 (2007年2月17日全国公開)
Part1のアニメ化作品で、OVAとほぼ同じスタッフにより製作されている。ストーリーがかなり簡略化されており、スピードワゴンを初めとする多くの主要キャラも尺の都合でカットされた.

小説
『ジョジョの奇妙な冒険』 (1993年、ジャンプ ジェイ ブックス)
『砂漠発地獄行』(著:関島眞頼。書き下ろし)
『熱き砂の墓標』(著:山口宏。1993年『ジャンプノベル』掲載分を収録)
Part3を題材にした小説作品。アフリカ上陸後を中心に、オリジナルのスタンド使いが登場。
『ジョジョの奇妙な冒険 II ゴールデンハート/ゴールデンリング』(著:宮昌太朗、大塚ギチ。2001年、ジャンプ ジェイ ブックス)
Parte5を題材にした小説作品。オリジナルのスタンド使いやフーゴのその後が描かれている。
『“The Book”jojo's bizarre adventure 4th another day』(著:乙一。2007年。ジャンプ j-BOOKS)
Part4を題材にした小説作品(当初は2002年『読むジャンプ』掲載の『ジョジョの奇妙な冒険 テュルプ博士の解剖学講義』を大幅加筆した話になる予定だった)。

CDカセットブック
Part3を題材にしたCDドラマ作品。

『ジョジョの奇妙な冒険第1巻 空条承太郎見参の巻』
第1章 静かなる暗殺者。花京院典明〜ハイエロファント・グリーン!
第2章 幻惑の旋律〜ストレンジ・リレイション!
第2章はオリジナルストーリー。DIOとは無関係の「スタンド使いの老人」が登場する(声優は永井一郎)。
『ジョジョの奇妙な冒険第2巻 アヴドゥル死すの巻』
第1章 戦慄の吊られた男(ハングドマン)〜J・ガイル
第2章 皇帝(エンペラー)の凶弾〜ホル・ホース
第2章には承太郎とホルホースが戦うオリジナルシーンが追加されている。
『ジョジョの奇妙な冒険第3巻 DIOの世界の巻』
第1章 DIOの世界・前編
第2章 DIOの世界・後編 遥かなる旅路・さらば友よ

コンピュータゲーム
ファミコンジャンプ 英雄列伝
ファミリーコンピュータ。1989年、バンダイ
16人のヒーローの一人としてPart2時代のジョセフ・ジョースターが登場。終盤では敵キャラとして「柱の男」エシディシも登場、原作での「柱の男は太陽の光に弱い」という設定がゲーム中でも反映されており、孫悟空の太陽拳を使用する事でその弱点をつくことが出来た。
ファミコンジャンプII 最強の7人
ファミリーコンピュータ。1991年、バンダイ
7人の主人公の内の一人として空条承太郎が登場。Part3が舞台となっており、承太郎の他にジョセフ、アブドゥル、ポルナレフ、花京院が登場する。
ジョジョの奇妙な冒険
スーパーファミコン。1993年、コブラチーム
Part3のロールプレイングゲーム。承太郎が住む街の中で不良や吸血鬼、スタンド使いなどと戦う、原作に登場するキャラでも登場する場所やスタンドの様子が違うなど、原作とはかなりかけ離れた内容となっている。ちなみに承太郎は「ときのがくぼう」を装備することによって時間停止能力を手に入れることになっている。
Part3の格闘ゲーム作品
ジョジョの奇妙な冒険
アーケードゲーム、プレイステーション。1998年 - 1999年、カプコン
ジョジョの奇妙な冒険 未来への遺産
アーケードゲーム、ドリームキャスト。1999年、カプコン
アーケード版を発売するに当たり、原作でたった1コマしか本体を表さなかった「ミドラー」を荒木飛呂彦が新たに描き下ろすなど、登場人物を増やした2D対戦型格闘ゲームである。ゲーム内でもスタンドを出して戦い、スタンドゲージというゲージが無くなるとスタンドが一時消えるというシステムである。隠しキャラとして、Part2の若きジョセフも登場する。
プレイステーション版は『未来への遺産』のキャラクターが追加されているものの、ハードスペック上の問題から、大幅にアレンジされている。新たに「スーパーストーリーモード」が作られ、原作のうち、格闘ゲームに向かない部分をミニゲームで補っている。これを通してポイントを貯めることで新たなコーナーやキャラの選択が可能となる。原作に準拠したプレイをすることで高得点を得られる。ポケットステーションとも連動。
ドリームキャスト版は『ジョジョの奇妙な冒険』『ジョジョの奇妙な冒険 未来への遺産』の両方を収録している。アーケード版の内容をほぼ完全に移植しているが、プレイステーション版のスーパーストーリーモードは収録していない。
ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風
プレイステーション2。2002年7月25日、カプコン
Parte5の3Dアクションゲーム。一部シーンの削除、「キング・クリムゾン」や「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム」といったスタンドの能力がゲーム向けに修正されているなどの改変がある。
ジャンプスーパースターズ
ニンテンドーDS。2005年8月8日、任天堂
『週刊少年ジャンプ』のオールスターによる対戦アクションゲーム。Part3から承太郎、ディオがバトルキャラとして、Part7からジャイロがサポートキャラ、ジョニィがヘルプキャラとして登場した。
ジョジョの奇妙な冒険 ファントムブラッド
プレイステーション2。2006年10月26日、バンダイ
Part1の3Dアクションゲーム作品。
ジャンプアルティメットスターズ
ニンテンドーDS。2006年11月23日、任天堂
『ジャンプスーパースターズ』の続編。歴代主人公とディオがバトルまたはサポートキャラとして登場。

[編集] アパレル
2002年FIFAワールドカップに向けたadidasの企画、『adidas MANGA FEVER』(雑誌)に参加。adidasとのコラボレーションTシャツ発表(2002年7月)
デザインはジョルノ。
BEAMSとのコラボレーションTシャツ発表(2003年8月)
ジョルノと徐倫が描かれている。
UNIQLO CREATIVE AWARD 2006に荒木飛呂彦が審査員として参加し、自らもデザインを手がけたコラボレーションTシャツを発表(2006年4月)
Part4に登場した吉良吉影のスタンド「キラークイーン」からスピンオフしたキャラ「キラー・タイガー・クイーン」、「キラー・ダンシング・クイーン」の二種の絵柄。
ultra-violenceからPart5に登場したブローノ・ブチャラティ仕様のカットソー「Sticky Fingers Buccellati」(2007年)。荒木飛呂彦の原画とコラボレーションした『ultra-violence×ジョジョの奇妙な冒険 コラボTシャツ』。第2弾まで各弾4種類ずつと限定モデル1種と石仮面モデル1種が発売されており全10種。(2008年)

トレーディングカードゲーム
バンダイより『ジョジョの奇妙な冒険 Adventure Battle Card』の名で発売。同社のトレーディングカードゲームの特徴を色濃く引き継いでいる。

第1弾 - 2007年3月9日発売
スターターボックス
ブースターパック
拡張シート
第2弾 - 2007年7月20日発売
構築済みスターターボックス オラオラデッキ
構築済みスターターボックス 無駄無駄デッキ
ブースターパック 〜そこにシビれる! あこがれるゥ!〜
第3弾 - 2007年11月9日発売
スターターボックス DIO & 9栄神スターター
ブースターパック 〜魂をかけよう!〜
タロットカードエディション - 2008年2月14日発売
第4弾 - 2008年3月27日発売
構築済みスターターボックス 癒しのオレンジデッキ
構築済みスターターボックス 静けさのブルーデッキ
ブースターパック 〜コッチヲ見ロッ!〜
第5弾 - 2008年7月10日発売
スターターセット ジョースター家の血統デッキ ジョナサン & 承太郎
スターターセット ジョースター家の血統デッキ ジョセフ & 仗助
ブースターパック 〜バイツァ・ダスト〜
第6弾 - 2008年11月29日発売
スターターセット 黄金の風
ブースターパック 〜黄金なる遺産〜

フィギュア
コトブキヤ ARTFXより『スターダストクルセイダース』と『黄金の風』を題材にしたシリーズが2000年に発売。それぞれスタンドと本体の二体セットとなっている。
超造形魂よりファントムブラッドを題材にしたフィギュア『ジョジョの奇妙な冒険 1』が2006年8月に発売。全10種。
HGIFシリーズよりファントムブラッドと戦闘潮流を題材にしたガチャポン『HGIFシリーズ ジョジョの奇妙な冒険』が2006年9月に発売。全5種。
超像革命メディコス・エンタテインメントよりジョナサン・ジョースターをモデルにしたフィギュア『超像Artコレクション ジョジョの奇妙な冒険 ジョナサン・ジョースター』が2007年10月に発売。2008年には空条承太郎モデルも発売された。どちらも全2種。
アクションフィギュアシリーズ「figma」よりジョナサン・ジョースターが発売予定。

タイアップ
映画「ザ・スタンド」(原題「Medicine Man」 1992年、監督ジョン・マクティアナン) 主演のショーン・コネリーの風貌がジョセフ・ジョースターを思わせるからか「ザ・スタンド」という邦題に。内容は全く異なる。

その他
漫画家
大亜門 『太臓もて王サーガ』では、作品全体にジョジョへのパロディが溢れている。『赤マルジャンプ』にて荒木とのコラボが実現。「太臓もて王サーガ」5巻に収録されている。
CLAMP 過去にジョジョの同人誌を発行している。[要出典]
高橋和希 週刊少年ジャンプ30周年企画のすごいジャン!!!にて「ジョジョがすごく好きでした。ジャンプというと、僕の作品ははっきり言って『ジョジョの奇妙な冒険』に影響を受けています。」と語りオススメジャンプマンガとしてジョジョの奇妙な冒険を挙げている。
大暮維人

小説家
乙一 本作のファンであることをきっかけに第4部のノベライズ本を執筆。ウルトラジャンプ2007年12月号で荒木と対談も行っている。
西尾維新 作品での台詞パロディーがちりばめられており、『戯言シリーズ』完結記念ムックにて荒木と対談を行った事もある。

日本国外での反響
海外では、イタリアで "Le bizzarre avventure di Jojo"、台湾では『JOJO冒険野郎』のタイトルで知られる。イタリア語版の本作品のタイトルも「JOJO」である。柔道がjudoであるように、外来語としては J の字もあり得るため、オリジナル準拠の表記とされている。ただし、Parte5が開始している70巻(日本語版とは巻数が異なる)の表紙はGioGioと表記されている。
また2005年9月からは、アメリカ合衆国でも発売されている。ただし日本で人気の高かったPart3のみ。ちなみにアメリカ版では権利関係の問題を回避するため、アーティスト由来の人物名が、例えば「エンヤ婆」は"Enyaba Geil"に「呪いのデーボ」は"Soul Sacrifice"に変更されている。しかしアーティストに由来する名称であっても一般に見られる姓名であればその限りではなく、ポルナレフやアブドゥルはそのままである。
OVA『ジョジョの奇妙な冒険 Adventure6 報復の霧』の中でディオ・ブランドーがアラビア語の書物を読みながら主人公一行の殺害を部下に命じるシーンがあり、この書物の文章がコーランのものであった。海賊版で鑑賞した中近東諸国のイスラム教徒やイスラム教スンナ派教学の指導者などが、これをイスラム教に対する侮辱で受け入れられないとして反発。原因は制作会社が雰囲気を出すためにアラビア文字の資料を探したところ、コーランをそれと知らずに転写してしまったため(原作ではコーランは描かれていない)。集英社と制作会社は「心よりおわび申し上げます。イスラームとその文化についての理解を一層深めるべく、努力する所存です」とコメントし、該当DVDの出荷を停止。また原作にもモスクの描写に不適切な表現があったとして、第3部の単行本・文庫版に加え、画集2冊の計29冊の出荷停止を決めた[12][13]。その影響があってか未だBlu-ray Disc化の話は無い。
米NBCで放送されたドラマ『HEROES/ヒーローズ』に登場する日本人キャラクターヒロ・ナカムラ(演:マシ・オカ)の有する特殊能力「Time Manipulation(時空間コントロール)」はヒロが憧れているマンガキャラの一人、空条承太郎(及びディオ・ブランドー)の時を止めるスタンド能力に由来するものであり、ヒロ自身のブログのHNも「Jotaro Kujo(空条承太郎)」にしているという設定である

2009年01月22日

重慶爆撃(じゅうけいばくげき)

重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す[1]。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。

1937年に日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。

これに対して対日徹底抗戦を決定した国民政府は、中国での権益確保・拡大を目指すアメリカやイギリス等の援助を受け、首都を南京から漢口に移転した。しかし漢口もまた陥落すると、次いで四川の奥地である重慶への首都移転を実行した。

大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶が天然の要害の地である事や、兵站の問題もあり即時攻略は困難であるという結論に達した。

1938年12月2日、こうした状況を受けた大本営は、中支那方面軍に対し「航空侵攻により敵の戦略中枢に攻撃を加えると共に航空撃滅戦の決行」との指示を出した。しかし直ちに大規模な爆撃を行なう勢力は当時の日本軍にはなく、また中国側航空部隊の邀撃も無視できない物であった。

稼働率や航空性能の劣るイ式100型重爆撃機(フィアットBR.20、九七式重爆撃機が完成する前の代用機)や対空防御が貧弱な九三式重爆撃機では被害が増大したため、中央統帥部は現地部隊に対して「航空侵攻作戦は概ね1939年秋以降に実施するので、各部隊はそれを目処として、整備訓練に勤めるように」と通達した。

そして、防備の固められた重慶に対しては、最新鋭の九七式重爆撃機、九六式陸上攻撃機を主体とする陸・海軍の航空兵力による航空侵攻を実施することとなった。

作戦の実行
爆撃は主に1939年から1941年の、視界が確保できる春から秋の間に行われ、投下した爆弾は1940年には4333トンに達した(佐々木隆爾編「昭和史の事典」)。爆撃目標は「戦略施設」であり、1939年4月の現地部隊への指示では、「敵の最高統帥、最高政治機関の捕捉撃滅に勤めよ」とあり、アメリカ、イギリスなど第三国の施設への被害は避けるようにと厳命されていた。しかし重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生する可能性があった。また、後期には完全な絨毯爆撃となった。
ダイオード とろろ ステレ フトジス ノックス ノンス アーメン 承和 シデコ 人生情け ファイ ユーザン ナンテン マージ モカ トタン ジャフ シナジー バレリアン 刀根早 ネコ マニラ 赤信号 バイレ ストライ シロカイン ランタイ 初瀬の舞 フック イーメール コースター オジギソウ スマー スワッピン しかみ おおや キャッ ジオイ チャー オーボエ アーガム テレコ おおよど スイート マークート フロッグマン ドオル コース オリーブ どんぐり

中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。

日本軍の航空部隊は、当時の航法の限界(無線やレーダーなどの誘導方法は当時なかった)などもあって、蒋介石の司令部の位置を特定し施設を狙った爆撃を行ったにもかかわらず、司令部施設に命中弾は無かった(二発命中との説もある)。 中国側は防空壕の不足や、換気装置の不備による避難者の大量死などの事故もあり、多くの犠牲者が発生した。市内の実に8割が損害を受けたといわれている。

爆撃の効果については、日本軍内部に疑問視する声もあった。しかし、現実には蒋介石軍に与えた影響は大きく、蒋介石の日記によれば、ほとんど戦争を単独で遂行することができないまでに追い込まれていたという。

この重慶爆撃に際しては、日本軍の戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばないため重慶まで爆撃機を護衛することができず、そのため日本軍爆撃機に少なくない被害が発生した。これが後に爆撃機並みの長い航続距離をもった戦闘機の開発を要求する戦訓になったといわれている。

戦局への影響
蒋介石は、重慶爆撃により戦争遂行能力の限界を感じて、爆撃の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調、宣伝することにより、大国アメリカを介入させる為の政治的な駆け引きに利用したという説がある。重慶爆撃の非人道行為としての側面が大きく扱われる原因もここにあるとされる。もっとも元々アメリカでは中国利権を日本に独占されることへの強い警戒感があったため、この主張は事実の一面しか捉えていないという反論もある。

一方、日本軍はこの爆撃の戦果を正確に検証できなかった為、戦果を拡大することが出来ず、また有効性に疑問があったため本格的な戦略重爆撃機の生産を遂に行なわなかった(計画のみ)。そして、戦略爆撃に対する備えも怠ったため、のちにアメリカ軍によって日本本土を爆撃されることになり、その重要性に気づいた時には既に戦争遂行能力をほとんど喪失していたのである。

さらに戦後には、戦略爆撃を始めた側として東京裁判で弾劾されたほか、非人道的行為をおこなった当事者「日本」として非難する活動にしばしば活用される材料とされた。また同じく非人道的行為である東京や広島・長崎への爆撃が報復攻撃であるとして正当化され、同じく非戦闘員を無差別に攻撃した同行為を非難する立場を相対化させる状況をあたえる要素となってしまった。

2009年01月15日

LSDの終焉

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アメリカでは、LSDは1960年代初頭には薬局に置かれるようになっていた。しかし、LSDは具体的な処方法と具体的な効果がはっきりしていない「新種の薬」であった(西欧の薬に対する一般的なコンセプトからはずれるものであった)。そのため、1962年にこのような薬を規制するために「安全性と有効性が条件に合致しない限りはマーケットに出せない」とする旨の法案が提出され、下院を通過した。また、LSDを「実験ドラッグ」と規定することでFDAは使用を研究目的に限定し、一般治療には使用できないようにした。

LSDは強烈な効果を有するために、ひとたび一般大衆の間に広がってしまったことにより服用中の事故が多発したことは当然の結果と言えた[69](錯乱によって引き起こされた死亡事故がほぼ全てであり、LSD自体の毒性で死亡した例はほとんど報告されていない。ただし、LSDの毒性で死亡したとされる例もその多くは粗悪な密造LSDに入っていた不純物による中毒であると考えられている[70])。

若者、ヒッピーや反戦・反政府主義者等のLSD使用が報道されると、LSDの有害性を誇張する報道が盛んになされるようになり、LSDを排除しようとする世論が高まってきた[71]。

そして世論を受ける形で1965年にはドラッグ乱用規制修正条項が下院を通過し、LSDの非合法な製造販売は軽犯罪となった[72]。

そのため、サンド研究所は1966年4月に「1943年に開発、発売したLSD-25は現代の精神医学や精神薬理学の研究において特別な意味を有し、世界中の病院、研究所に調査依頼をすることで可能な限りの厳格な注意規定を課すことが出来たが、近年の若者達の濫用の増加やLSDを興味を持つ層に対しての無責任な生産、密売はこの限りでない。さらには1963年以降、LSDに関してのサンド社の特許権は失効した。薬剤に対する正しい研究への認識が深められ、誤った濫用を阻止するためにサンド社が当然行わなければならない事柄として、LSD-25のすべての販売を中止する」というコメントを出し、LSDの販売中止と回収を開始した[73]。

1968年にはドラッグ乱用規制修正条項が修正され、LSDの所持も軽犯罪となり、販売は重罪とされた。その後、世界中でLSDは規制されることとなった(日本では1970年に麻薬に指定された)。

ヘイト・アシュベリーでは「ヒッピーの死」と題する「LSDの葬儀」が行われた。数百人のヒッピーがパレードをした後、シリン兄弟のサイケデリックショップの看板が外され、埋葬された

世界中で規制され、ヒッピーのムーブメントが去った後、LSDの使用は激減した。

日本では、LSDが麻薬に指定された次の年である1971年においてはLSD事犯が麻薬取締法違反で検挙された人員のうち45.5%を占めるものであったが[75]、1986年においては1.2%にまで減少している。

しかし、1980年代後半にスペインのイビザ島のクラブでプレイされていた楽曲をイギリスのDJ達が本国に持ち帰ったことから起こったセカンドサマーオブラヴのムーブメントや1990年代前半に起こったアシッド・ハウスリヴァイバル等において再びLSDは(多幸系のドラッグとともに)多用されるようになった。現在LSDはクラブで使用されるドラッグとして、覚醒剤やマリファナ、エクスタシーと並ぶ地位を確立している。

LSDの多くはアメリカ、ドイツ、スペインで作られており、アメリカで作られたものはイギリスに、ドイツで作られたものはイスラエルに、そしてスペインで作られたものが世界中に流通していると言われている。

薬理効果

用量
LSDはこれまでに知られている向精神薬の中でも最も強力なものの1つであり(メスカリンの1万倍の作用)、わずか0.001mgの微量で(砂粒の10分の1ほど)穏やかな多幸感、抑制の解除、高い感応性が生じ、0.05mgでサイケデリック体験を起こす。作用の強度と深さは0.5mgまで増加する[79]。これ以上は持続時間が伸びるのみで体験内容に変化が起きることはない[79]。

体内に吸収されたLSDの濃度は10分で最高潮に達し(小腸のみ2時間)、その後急速に降下する。LSDは肝臓と胆嚢を経て腸に至り、80%が排泄され、残りはほぼ全て有機物に分解されてしまう。連続服用しても耐性ができるために効果はかなり小さく、またLSDは中毒性の強い薬物とは区別される。

毒性
人間の致死量は分かっていない。動物実験の結果、LD50はラットで16.5mg/kg、ウサギは0.3mg/kg、ゾウでは0.06mg/kgであり、人間の場合は0.003mg/kgであると考えられている(ホフマン博士自身は実験でこれよりもはるかに多く服用した)。これを越えると呼吸麻痺で死に至る。過度使用によると推定されている死亡例によれば、LSDの血中濃度から、320mgのLSDを静脈注射したためだと推定された[。

また、LSDは染色体に影響を与える遺伝物質である、胎児の形成異常を生じさせる、脳に永続的な損傷を与える、と言われていたが、LSDが禁止されるまでに数多く行われた実験(この時期に書かれたLSDに関する論文は1000本以上、開かれた国際会議は6つ、何十冊もの著作が出版され、投与された患者は4万人にものぼった[82])により否定されている