9月1日の戦闘後ドイツ軍包囲網からの脱出を図ったポーランド軍ポモルスカ騎兵旅団は、9月3日ガイル・ フォン・シュヴェッペンブルク少将指揮のドイツ第3装甲師団と遭遇し、突破を試みたが、その火力の前に殲滅された。つまり最終的にポーランド騎兵は「ドイツの戦車に突撃し敗れた」形となった。
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「ポーランド空軍は飛び立つこともできずに開戦当日に地上で破壊された。」: ポーランド空軍 (Wojska Lotnicze i Obrony Powietrznej、通称Siły Powietrzne) は数の上で劣勢で、しかも最新型の戦闘機が配備されていなかったが、戦闘機部隊は開戦直前に空軍基地から各地に偽装された小規模な「離着陸場」に移されており、地上で破壊されることはなかった。何機かの練習機や予備機だけが地上で破壊された。ポーランド空軍は9月1日の開戦から2週間は活発に作戦を行った。ポーランド側のパイロットはドイツのパイロットに比べてよりよく訓練されており、劣勢な装備ながらドイツ空軍機百数十機を破壊するという無視できない戦果を挙げた。多くのポーランド人熟練パイロットは後にポーランドを脱出して最終的にイギリスに到達し、イギリス空軍に参加してバトル・オブ・ブリテンなどで活躍した。イギリス空軍第303コシチュシコ戦闘機中隊はバトル・オブ・ブリテン開始2ヵ月後にポーランド人と2人の亡命チェコ人のパイロットたちによって編成され、バトル・オブ・ブリテンの期間、イギリス空軍の全戦闘機部隊のうちで最も多い126機の敵機撃墜記録を挙げたことで勇名を馳せた。のちに出版された「303 Squadron」という本はイギリス国内でベストセラーとなり、ドイツ占領下のポーランドでも地下組織によってこの本の海賊版が数多く出回り、たくさんの若者に読まれた。第303コシチュシコ戦闘機中隊の最初の成功によって、他にも多くのポーランド人飛行中隊がイギリス空軍内に編成された。最終的に9個の戦闘機部隊を含む計14個のポーランド人(が主体の)飛行中隊が編成された。
「ポーランドはドイツ軍侵攻の前にほとんど抵抗できず、すぐに降伏してしまった。」: ポーランド侵攻作戦の期間は1940年のフランス侵攻作戦の期間と比べて一週間短いだけである。しかもフランス侵攻作戦ではイギリスとフランスの同盟軍は数の上でも装備の上でもドイツ軍とほぼ拮抗していたにもかかわらず、である。また、ポーランドがドイツに降伏したというのも事実ではない。
「ドイツ軍は画期的な戦闘概念を構築し、新技術を大胆に使った。」: ポーランド侵攻における電撃戦の適用というのは大きな誤解である。アメリカのジャーナリストであるマシュー・クーパーの著書「The German Army 1939-1945: Its Political and Military Failure」には、次のように書かれている。「ポーランド侵攻を通じてドイツの機械化部隊の活動が明らかにしたことは、機械化部隊はただ単に自らの進軍を減速して歩兵の活動を支援するだけだったということである。(中略)したがって、装甲車両に関する思想の戦略的な開拓は死産という結果に終わった。このような作戦司令部の停滞と意気込みの低下は…ドイツ陸軍や空軍…の究極的目的ではなく、伝統的な包囲作戦と空からの攻撃による支援の成功の偶然の副産物に過ぎなかった。当然、包囲も空襲もどちらも敵軍を物理的に破壊するという目的があったからである。これはポーランド侵攻における殲滅戦理論であった。」殲滅戦理論は18世紀のフリードリヒ大王の時代までさかのぼる古く伝統的な戦略であって、19世紀前半にクラウゼヴィッツによって体系化されたが、1870年の普仏戦争や1914年のフランス侵攻からほとんど修正されずにポーランド侵攻に適用された。戦車の使用は「いちおう望ましいものとして留保された…進軍する際の側面からの敵の攻撃に対する恐れ、すなわち1940年の西欧および1941年のソ連におけるドイツ軍の作戦は成功の見込みが低いだろうという恐れは、この戦争のはじめから存在していたのである。」第二次世界大戦後いくらも経っていない時期の歴史観(たとえば1965年出版のバリー・ピット著「The Second World War」)は、戦争初期におけるドイツの勝利は「1918年から1940年の間に飛躍的に進歩した軍事技術」のおかげであるという不正確な視点に基づいており、「ドイツは(戦間期イギリスの)理論を実際の行動において適用し…それを電撃戦と呼んだ」という誤った記述をしている。ジョン・エリスはその著書「Brute Force: Allied Strategy and Tactics in the Second World War」(1990年)において、「…ドイツの装甲師団はいわゆる本物の電撃戦の特徴を持った戦略的任務は負っておらずほとんどいつも各歩兵軍団に対し従属的な存在であったというマシュー・クーパーの主張は充分に妥当である。」と述べている。1985年にはゼロンガとマデイはその著書「The Polish Campaign 1939」において、広く伝説的に解釈されている電撃戦の問題と、ポーランド侵攻における他の兵器の重要性について扱っている。「西側諸国は戦車とシュトゥーカによる攻撃の衝撃的価値に注目していたが、一方でポーランド軍部隊に対するドイツの野戦砲による攻撃の効果については過小評価する傾向にあった。ポーランド侵攻において実際にポーランド軍を粉砕したのは、大量に移動し使用されたドイツ軍の野戦砲であった。」